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現至凡創 

-げんしはんそう-

現在に至るまでのすべてが今の自分を創る。

これまでの良いも悪いも敬意を払う。

-川に対する「思い」は十人十色-

 

「方法」や「行動」にはそれぞれの[思い]が表れる。餌か毛針かなどの釣りの方法、釣った魚をキャッチするかリリースするかなどの行動。でも「方法」や「行動」に正解はない。もし正解があるとしたら「川が好きかどうか」だ。「川が好き」であれば「方法」も「行動」も正解なんだと僕は思う。

 

子供の頃、夏休みは良く川に行った。自転車のチェーンに割り箸づたいにサラダ油を差してスイスイとみんなで川まで行ったものだ。道中のクヌギ林でノコギリクワガタを採り、蜂の巣を見つけて子を食べた。川では石の下に手を入れながら暗くなるまで岩魚を掴んだ。もぐって水中メガネで岩魚を探し、石の下の暗闇で揺らぐ岩魚の白い鰭先を見つけると気持が高ぶった。ヤスで突くと暴れた岩魚の振動が手元にブルッと伝わる。尊い命の鼓動だ。ヤス突きは、人と魚の間にはサオも糸も餌も無い。ずぶ濡れになって川を五感で感じる。また、ヤスも持たない「手掴み」はさらに人と魚の間に介するものをすべてそぎ落とした格好になる。

 

少年時代に虜になった「手掴み」と「ヤス突き」狩猟本能が開花する興奮、岩魚や川と真正面から向き合い陸上からの釣りでは感じる事のできない世界観。水底の孤独な静寂、冷え切った体に焼いた岩魚の味が染み渡った。四季の変化を最大限に感じられる日本古来の文化だと思う。尊い魚の命と引きかえに「川と岩魚を心から愛する」今の自分をつくった貴重な体験だった。


現在は釣りをしている。持ち帰り食べる事もあれば、魚体に触れないようリリースする事もある。今は訳あってヤスをやっていないが、ヤス突きには一言では語れない素晴らしき世界がある。釣りにもまた一言では語れない素晴らしき世界がある。

 

「僕は川が好きだ」

今行凡創 

-こんぎょうはんそう-

今日の行いがこの先の自分のすべてを創る。

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